震災と街の歴史

2013年6月25日

米澤正己(建築家・ひらつか防災まちづくりの会会員)

1.平塚の地形と地盤の形成

 平塚の地形は、市域の北西部を占める洪積大地と、市域の中心を占める沖積平野に区分されます。洪積台地とは沖積低地より一段高く、第四紀洪積世(更新世、氷河時代、約200万年前ないし1万年前)に堆積した地層で、その後隆起して形成された台地(段丘)です。一般に、密実な砂や砂礫層が比較的浅い場所に分布し、地下水位も低いことから建築基礎地盤として好条件であることが多い地域です。それに対して沖積平野とは、第四紀沖積世(更新世末~完新世)に河川や海の力により堆積してできた場所で、軟弱地盤が多く、圧密沈下、液状化などの問題を持つ地盤となっている事が多く、建設基礎地盤としては注意が必要です。しかしながら、沖積低地にあっても、河川上流の扇状地、海岸砂州や砂丘などの礫質土、砂質土層からなる地域は、比較的良好な地盤とも言えます。実際、軟弱地盤の厚さは後背湿地や谷底平野で厚くなっており、平塚市内のボーリング調査の結果でも、沖積層のうち、N値が10以下の地層(軟弱地盤という)が最も厚いのは、岡崎の谷底平野と金目の旧河道で20m以上に達します。それに比較して砂州・砂丘地帯では薄くなっており、建物地盤としては比較的良好と言えます。

 相模平野は、約6000年前の縄文海進以前に相模川が古相模湾に造成したもので、ローム層や泥土・砂礫・粘土などが入り混じった沖積層であり、その層の厚さは30~300メートルに及んでいます。平塚市域の沖積地は、金目川・鈴川・渋田川により造成された沖積地と、相模川・花水川間の平塚砂丘地域とに大別されます。

 今から2万年前は、寒冷な気候により海水面は現在より100メートルも低い位置にあり、相模川と花水川は深い谷を刻んでいました。その後、氷期も終わり海水面が上昇するいわゆる縄文海進期に入り、今から6000年前の平塚においては、古相模湾が洪積大地の周辺まで進みました。そして相模川を主力とする多くの河川が、主として丹沢山地を削って多量の土砂や砂礫を運んで来て、氷期に形成された谷や段丘を埋没して沖積層を造成しました。したがって、5000年前の平塚は、平坦地(沖積低地)は古相模湾の海底にあり、台地や丘陵(洪積大地)は島や半島だったのです。したがって、その頃の貝塚などの遺跡は、岡崎台地、北金目台地、大磯丘陵など、古相模湾に臨んだ洪積大地の縁辺部に存在しました。紀元前後の弥生時代に入ると、海岸線も後退し、古相模湾が沖積低地化するのと、稲作作業の普及とが相俟って、台地から平野に移り住んだことが中原上宿の遺跡などからもわかります。

相模平野の微地形分類図(森 1993)

沖積層の基底地形(貝塚・森山 1969による)

「平塚・平野の地形」より/平塚市博物館 1993年3月31日発行)

原掲は貝塚爽平・森山昭雄共著「地理学評論42、85-106、1969年発行」


 右の沖積層の基底地形図は平野を埋める沖積層の基底高度の等深線で、約1.8万年前の最終氷期の地形を示します。沖積層の厚さはこの高度にその地点の標高を足したものになります。かつての金目川は、現在と大幅に異なる流路をとり、中原を通って相模川に注いでいたことがうかがえます。かつての相模川は、ほぼ現在の位置を流れ、-90mに谷底があったことがわかります。

平塚-辻堂の地盤断面

「平塚・平野の地形」より/平塚市博物館 1993年3月31日発行

原掲は貝塚爽平・森山昭雄共著「地理学評論42、85-106、1969年発行」

 平塚市域の砂丘は、藤沢市の境川から平塚市の花水川間の低地部に発達した湘南砂丘地帯の一部で、平塚市域に於いて一番幅が広く、約10列の平行砂丘を形成し6キロに及んでいます。平塚の砂丘生成は、遠浅の砂浜海岸に波と沿岸流によって砂を盛り上げて砂堆を形成し、これが土台となって砂丘に移行したもので、大体10~15メートルの高さがあります。平塚の砂丘は、今から5000年ほど前から形成し始め、古相模湾を内海化する役割を果たしましたが、1000年前には形成が止まり、その後地形の平坦化が進んだと考えられています。砂丘の存在を示す地名は、現在、山・峯・丘・台などがあり、砂丘間低地の名残りとして谷戸等があります。砂丘地域の特性としては、水が良く浸透するので乾燥した土地となりますが、谷の部分は低湿地となり泉が湧き池や沼ができることもあります。

これは平塚駅西の中央地下道工事の際に1964年に地下5.1mから発見された長さ4m程の巨大な埋もれ木です。この埋もれ木は標高2.0mの砂礫から出土し、放射性元素を用いた炭素による年代測定の結果では、約2000年前に漂着物として海岸に打ち上げられたタブノキであり、東海道線付近は、約2000年前には海辺であったと思われます。

 新平塚風土記稿(高瀬慎吾著、昭和45年3月31日 平塚市教育委員会発行)によると、黒部ヶ丘の地には建久2年(1191)源頼朝が勧請した社であると言われる黒部宮とその別当範隆寺とを中心とした門前集落があり、いまでも残る坂の辺りを十間坂と呼んでいますが、当時は汀線が今よりずっと北にあって、この十間坂はたびたび高潮のために遭難したので、やむなく町ぐるみ北方700メートル程の所に集団移転したと言われています。これが柳町であり春日神社であり、また広蔵寺であったと伝えられています。

 また、この砂丘の地に1万数千坪の敷地を購入して、明治29年に結核療養所として杏雲堂平塚病院を開設した佐々木政吉は、この地を選んだ理由として、空気が新鮮でかつ松林に富めること、地下水が清冷で豊富であること、地質が白砂で乾燥していること、人煙疎らでしかも東京からの交通も不便でないことなどを挙げていますが、当時のこの地の特徴を表しています。ちなみに当時のこの地は、平塚町に編入されるまでは須馬村広ガ原と称し、政吉が購入した敷地は周囲を松林に囲まれ海に面した小高い丘陵地で、平塚の駅から数町の道のりは松の並木の続く砂地であったと言われています。


(杏雲堂平塚病院100年史 財団法人佐々木研究所編集 平成9年9月11日発行)

2.貞観地震(869年)と相模・武蔵地震(878年)

 平安時代前期の貞観11年(869年)5月26日に日本の陸奥国東方沖(日本海溝付近)の海底を震源域として発生した巨大地震で、地震の規模は少なくともM8.3以上であったとされます。そのため地震に伴って発生した津波による被害も甚大で、東北地方太平洋沖地震(東日本大地震)と共通した特徴を持っています。この地震の5年前の貞観6年(864年)には富士山も噴火し、大量の溶岩流を噴出し、その上に現在の青木ヶ原の樹海が広がっています。

 相模・武蔵地震は、貞観地震の9年後の元契2年(878年)に発生した丹沢東縁を震源とするM7.4クラスの地震で、相模トラフのプレート間地震とも推定され、伊勢原断層の活動を誘発しました。また、仁和3年(887年)には、南海トラフ巨大地震と推定されるM8.0~8.5の仁和地震も発生しており、この時代に日本付近の地殻が大きく変動していた可能性が高いとされています。

 

 ちなみに富士山は、延暦19年(800年)にも噴火しており、そのためそれまで東下りの道として使われていた足柄峠を越えて坂本に出て、松田から秦野・粕屋・愛甲・酒井から相模川を田村の渡しを渡って東国に入るというルートが使えなくなり、箱根峠を越えて湯坂道を通り、湯本・小田原・中村・梅沢・柳田・小磯・大磯を経て、花水川を渡って平塚に入り、黒部宮のある十間坂を経て平塚の本宿を入り田村の渡しを渡るというルートが使われるようになったと言います。時は平安時代ですが、桓武天皇の孫に当たる高見王という人が、東国に下向する際に、その子の高望王と政子(真砂子)も同道して東下しましたが、箱根峠越えのルートを通って平塚の地に入った所で、娘の政子(真砂子)が病に罹り、天安元年(857年)に亡くなってしまいました。その死を悼んだ付近の住民が、その亡骸を手厚く葬り、そこに塚を築いたところ、年を経てその塚の上面が平になったことから「平塚」という地名になったと言われています。(「「平塚」の地名の誕生と、富士山の噴火」 平塚市の地名と伝承 小川治良執筆監修 郷土の地名を調べる会・湘南郷土誌会編集協力 H16年大原公民館発行)

 

3.明応地震

 明応地震は、室町時代後期の明応7年(1498年)8月25日、東海沖を震源とし、房総から紀伊半島にかけて大きな被害をもたらした地震で、南海トラフ沿いの巨大地震と推定されています。震源域は東海地震・東南海地震と思われるものでしたが、同時期に南海地震の存在も明らかとなり、東海・東南海・南海連動型地震であった可能性もあります。明応地震においては紀伊から房総にかけて大規模な津波の襲来が記録されており、鎌倉で8~10メートル、藤沢で5~6メートルの津波であったと推測されています。陸路となっていた江ノ島の干潟が海となり、鎌倉長谷にある高徳院の大仏殿が津波で流され、200人あまりの溺死者が出たとの記録があるが、異説もあります。

 

4.元禄地震(元禄南関東大地震)

 元禄地震は、元禄16年(1703年)11月23日、関東地方南方を震源に発生した地震です。推定マグニチュードは7.9~8.2、関東南部は広い範囲で震度5~6の揺れに襲われ、相模湾では震度7であったと推定されています。

 

 平塚市域でみると金目川周辺では「家居残らず潰れ、田畑大分普請所多く」(当館寄託文書)と家屋の倒壊と耕地の荒廃という被害が発生しました。また、金目川も「地震以来、川瀬大分高く罷り成り、少しの水にも堤押し切れ申し候」(『平塚市史』4巻43号資料)と川底が高くなり洪水が発生しやすい状態となりました。相模川河口の須賀村では「津波にて押埋、船かけ場御座なく」と津波により港としての機能が損なわれる被害を受けました。

 平塚市域でこのような被害が確認できる元禄地震ですが、この地震の直後に平塚宿を通行した人物の道中日記が残されています。それは京都下賀茂神社の社家である梨木祐之の道中日記です。彼は江戸から京都へ帰る途中、戸塚宿で地震に遭いました。その後様子をみたのち戸塚宿を出立し、11月26日に平塚を通行し、この時を様子を日記に記しています(藤沢市史料集31『旅人がみた藤沢』(1))。

 まず、彼は馬入の渡しで地震により「舟共沖へ浪にとられたり」として地震当日の23日の夕方は1艘だけで旅客を渡したという話を聞いています。もっとも、彼が渡る26日にはどこからか渡船を調達したらしく3艘の舟で渡船していました。しかし、潮が満ちているとのことで「半里計川上へまわりて舟に乗也」と2Kmほど上流に上って渡ったといいます。

 相模川を渡ると馬入村は「残りたるいゑもなく、みな頽れてみへ渡る」と全ての家が倒壊しているのが見えました。「やわた町」=平塚新宿では松並木の倒壊は見られませんでしたが、「町屋は馬入村とおなじ」と家屋の倒壊は馬入村同様でした。平塚宿もやはり「残りたる人家なし」という状況でした。

 彼は平塚宿である話を聞き、それを次のように書きとめます。

 「十四歳になる男子、家におされたるを父母あはてまどひて、其子の両の手を取て引出さんとしたりければ、左右の腕を引抜たり」

 平塚宿の十四歳の男の子が家の下敷きになり、両親があわててその子の両手を取って引出そうとしたら、両腕が抜けたというのです。この話を聞いて彼は「父母の哀悼悲歎、たとへん方もなしとぞ。聞にだに堪がたき事」と感想を述べています。平塚宿の地震の悲劇の一こまといえます。

 さて、平塚宿を出て花水橋を渡ると花水橋に被害はなかったようですが、「橋つめの地形大に裂破て、溝洫のごとし」と橋のたもとの地面は大きく亀裂が生じ、水路のようになっていたといいます。また、「凡そ海道の大地裂破たる所に、悉泥水湧出せり」とも記しており、東海道沿いで地面に亀裂が生じているところにはみな泥水が湧き出していると液状化現象を記しています。そのほか「海道の右方の山々も崩れたる体あまた所みえたり、木なども多倒れたり」と高麗山などの山々が崩れ倒木がみられると記しています。(ひらつか歴史紀行 第11回 元禄南関東大地震と平塚宿の被害/平塚市博物館)

 

 地震発生後4年目の宝永○年(1707年)に富士山が噴火して関東一円に大きな被害をもたらしました。この宝永噴火は南海トラフ沿いの巨大地震から49日後に発生。噴煙の高さは20キロ以上に達したとの試算もあり、大量の火山灰が広範囲に降りました。宝永噴火は冬に起きましたが、偏西風の風下だった県下に大量の火山灰が降り積もり、噴火が続いた約2週間に現在の横浜市で16センチ、川崎市で8センチの降灰が確認されたと伝えられています。平塚市域にも23~24センチの火山灰の堆積があり、田畑の降灰の除去で「亀幸島」(旭地区河内)という地名の集積地が生まれたり、金目川の筋替えも行われました。

 東日本大震災を除けば20世紀以降に世界で起きたM9クラスの巨大地震後は、必ず数年以内に震源域周辺で大噴火が発生しています。しかしながら富士山は、宝永の噴火後300年以上も静穏な状態が続き、火山専門家は「富士山は過去3200年で約100回も噴火しており、異常事態だ」と指摘しています。

 

5.嘉永地震

 嘉永小田原地震は、ペリー来航の約4ヵ月前の嘉永6年(1853年)2月2日に発生した、小田原を中心としたマグニチュード6.7の直下型地震です。「藤岡屋日記」には、2月2日に30回、3日には25回、4日は2回の余震があったと記録されています(神奈川県公文書館の震災展示解説より)。

 小田原城は天守閣が大破し、藩主の屋敷や役所が全半壊し百姓家の全壊が824軒に上ったといわれています。

 江戸は、元禄16年(1703)の元禄関東地震以来、実に150年間も大地震に襲われておらず、この間に人口130万人以上と推定される世界一の巨大都市になっていました。嘉永小田原地震の翌年である嘉永7年/安政元年(1854)は、ペリーが七隻の艦隊を率いて江戸湾に現れた年ですが、6月15日に伊賀上野・四日市・笠置山地の一帯でM7クラスの大地震が相次いで発生しました。それに続き11月4日にM8.4といわれる安政東海地震が発生し、翌11月5日に同じくM8.4とされる安政南海地震が発生しました。これらの地震により少なからぬ被害を受けた江戸の街でしたが、翌安政2年(1855)の11月11日にM6.9の江戸直下型地震である安政江戸地震が発生しました。この大都市における町人地の家屋の倒壊率は10%を優に超えていたといいます。しかしながら火災による焼失面積は風が穏やかであったことも幸いして比較的少なく、約1万人といわれる犠牲者の多くは家屋の倒壊による圧死者であったといわれています。

 1853年の嘉永小田原地震からの5年間に大きな地震が各地で続き、安政江戸大震災の12年後に徳川幕府は幕を閉じました。

6.関東地震(大正12年(1923)9月1日11時58分)

 関東地震に至までの期間、房総半島南部や三浦半島東部から湘南江ノ島にかけての海岸部、小田原から伊東の南にかけての相模湾西岸で、地盤がじわじわと沈降する現象が見られました。その沈降量は数十年で数十センチ位に達していました。小田原では、明治の初めに巾が100メートルほどもあって田を耕していたりした海岸が、だんだん狭くなって田もいつしか消えていました。

 明治45年(1912年)2月23日の夜から、伊豆大島の三原山が噴火を始め、最盛期には壮大な花火のように溶岩を噴き上げていましたが、大正3年(1914年)になって、十日あまりの爆発的な活動の後5月26日に終息しました。(石橋克彦「大地動乱の時代」岩波新書1994年発行)

 

 関東地震は、大正12年(1923年)9月1日の11時58分に発生した、相模湾沖を震源とするマグニチュード7.9の地震です。一般に「関東大震災」の名称で知られており、神奈川県を中心に関東地方と静岡県に未曾有の被害をもたらしました。190万人が被災し、10万5千人余が死亡ないし行方不明とされ、建物被害では全壊が10万9千余棟、全焼が21万2千余棟といわれています。強風を伴なった火災による死傷者が多く、本所被覆廠跡では4万4千人が亡くなりました。平塚市域では、死者476名、家屋全壊4192戸に及びました。

 津波による被害は相模湾沿岸部と房総半島沿岸部で発生し、熱海で高さ12m以上の津波が記録されました。山崩れや崖崩れ、土石流に伴なう被害は丹沢山麓などで数多く発生しました。特に根府川で起こった山津波は根府川の集落を埋没させ、根府川駅では列車を海中に転落させました。

 神奈川県の家屋倒壊率(下図)を見ると、震源に近い小田原の酒匂川下流域と、平塚北部〜厚木南部にかけて全壊率が高くなっています。これは平塚南部の砂州砂丘地帯より、自然堤防地帯の方が軟弱地盤が厚いことを反映したものと考えられます。

 この地震により、相模湾岸の房総半島南部・三浦半島・大磯丘陵南部で1m以上隆起し、丹沢では1m以上沈降しました。大磯町照ヶ崎の磯はまさにこの地震で隆起したものです。最近の研究では、本震は連続した2つの地震からなり、最初に小田原の直下で発生し、10〜15秒後に三浦半島の直下で発生したといわれます。その後、5分間の間にさらにマグニチュード7以上の余震が2つあったと考えられています。この地震はフィリピン海プレートの沈み込み境界で発生したものでした。

 相模トラフを震源とする巨大地震には1923年の大正型地震と1703年の元禄型地震との二つのタイプが知られています。前者は相模トラフを震源とし、房総半島南部から大磯丘陵を隆起させる地震であり、後者は房総半島沖が震源で、房総から三浦半島を隆起させるものです。再来周期については、大正型地震で数百年、元禄型地震で2000年程度と考えられています。関東地震の再来については、国府津−松田断層の活動や大磯丘陵の隆起と絡んで、考えられています。


▲液状化による馬入川鉄橋の崩壊

▲国府津二宮間の線路の被害



▲平塚大門通りの家屋被害

▲関東地震で生じた震生湖


▲1923年関東地震の神奈川県内の家屋倒壊率(平塚市博物館1978)

(1923年関東地震の被害/平塚市博物館HPより)

 平塚市域における被災状況としては、現平塚市域において死者476名、家屋全壊4192戸の被害を出しました。家屋倒壊率は平塚南部の砂州砂丘地帯より北部の自然堤防地帯の方が高く、これは軟弱地盤の厚さが反映していると考えられます。

 ここでは関東大震災の一次被害の様相を語る証言や記録を地域別にご紹介したいと思います(出典は注記がない限り平塚市博物館『震災調査報告書』)。

6-1)相模川右岸河口・馬入橋付近

 現在の札場町・千石河岸・久領堤付近では「地割れがあり、水を伴う砂利を噴き上げた」、「足が湧き上がる砂で埋まり歩けなくなって困った」などの液状化現象の証言がみられます。馬入鉄橋も液状化現象で倒壊しました。また、現平塚市内では津波による大きな被害は確認できませんが、「四之宮辺まで波が遡ったといわれ」、「船だまりの船は、みな栓が抜いてあったが全部流された」といいます(『西さがみ庶民史録』5号)。

倒壊した馬入橋(平塚市博物館HPより)

6-2)西八幡・東八幡・四之宮・真土付近

 八幡小学校付近での地割れ、東八幡の古河電工付近の噴砂、四之宮でも「噴砂が至る所で出た」との証言があります。また、四之宮の民家の敷地には幅1m、深さ1mの地割れ、真土でも「地割れに家ごと落ちた」という証言があります。ここでも地割れと液状化現象が確認できます。なお、海軍火薬廠では爆発事故が発生し、「其音響甚シク黒烟天ニ漲リ、四面暗黒」になったといいます(『平塚市史』7巻No.48)。

 

6-3)神田地区

 田村では3戸を除いて「百八十戸以上ノ居宅ハ全部倒壊」という被害を出し(『平塚市史』7巻No.48)、神田地区は現市域で最高の家屋倒壊率は示します。また、この地域でも噴砂と地割れの証言があり、水田は「海嘯の如く泥水の波濤を巻き起こし、水田畦畔は陥没または決壊し、道路毀損し、水田中は大池沼」となったといいます。また、神川橋では「200mにわたってずっと杭が出た。相模川沿いは昔の治水の杭がたくさん出た」といいます。

 

6-4)平塚駅付近

 平塚駅は全壊し「駅員と列車待合客百数十人名は、その下敷きにになり、死者6名」を出しました。平塚小学校(現崇善小学校)では「全国殖産興業博覧会褒章授与式挙行のため参列者200名がおり下敷き」となり、21名の死者を出したといいます。 また、相模紡績株式会社平塚工場(現JT平塚工場)では「高さ百メートルもある工場の煙突が根元の土台ごと盛り上がったと思ったら、地響きを立てて、ドッカンと倒れ」たといい、建物はすべて倒壊、死者は144名にも上り、うち約60名は夜勤明けのため寮で就寝していた女工たちであったといいます(『西さがみ庶民史録』5号・『神奈川県震災誌』)。


平塚駅

現平塚市明石町付近の惨状



相模紡績平塚工場の被害

平塚小学校:褒章授与式会場が原形をとどめる


6-5)上平塚・南原・纏・徳延付近

 この地域でも「青い砂・富士砂・水が噴出した」(上平塚)、「庭に幅30cm地割れし水が出た」(纏)、「家の下からも幅10cmほど砂泥を噴出した」(徳延)といった液状化現象が確認できます。徳延は「家はほぼ全滅した」といいます。また、花水川の堤防も崩落しました。

古花水橋付近の道路の地割れ(平塚市博物館HPより)

6-6)金田地区

 この地域でも地割れの証言があります。入野では「みな家が潰れていた」といいます。また、「金田小学校の校長先生は、その時将棋をしていて、「あわてるな、逃げるな」とどなった。そして、つぶれちゃった。その時、五つか六つのお孫さんを抱えた奥さんは、背中がまっ二つに折れ即死状態」だったという証言もあります(『西さがみ庶民史録』5号)。さらに、「金目川の堤防はめちゃめちゃで、増水につぐ増水で、上から流れてくる水が、みんな自由自在」だったといいます(『西さがみ庶民史録』5号)。飯島でも噴砂・噴泥の証言があります。

 

6-7)豊田地区

 この地域では小さい地割れと水田での噴水が証言されています。

 

6-8)城島地区

 下島では「家の倒壊は少なかった」ようですが、大島では「家は殆ど潰れた」といいます。城所では「道路他一面地割れ」だったといいます。

 

6-9)岡崎地区

 「伊勢原県道は、道に沿ってズタズタに地割れ」、「鈴川の堤防は全て川に埋まり、川底は上がった」(別名)といいます。また丸島では「家の下から噴泥し、富士砂のような噴砂」があったといいます。なお、旧岡崎村役場の資料によれば至る所の宅地・耕地・道路に隆起と陥没・亀裂が記録されています。

 

6-10)広川・片岡・公所付近

 広川では民家で「敷地内の元半分田だった所は、南北に20mにわたり、水や泥が噴き出した。地割れは多数あった」といい、片岡・公所でも「方々で地割れ」がありましたが、公所では家は潰れなかったとのことです。また、旧金目村役場の資料によれば広川・千須谷の至る所に「隆起」・「陥落」・「崩落」・「湧水枯渇」などの被害が記録されています。

 

6-11)南金目・北金目・真田付近

 南金目では多数の地割れ、北金目でも多数の地割れと民家敷地内での噴泥が確認されています。また、真田では「天徳寺の東側100mの竹藪が地割れし、池が出来た」といいます。また、旧金目村役場の資料によれば南金目・北金目の至る所で土地の「隆起」・「陥没」・「崩落」が記録されています。

金目川堤防の崩壊(平塚市博物館HPより)

6-12)土沢地区

 上吉沢・下吉沢で地割れと民家敷地内での湧水が報告されています。土屋では「堤防が崩れて河川流出」、宝盛寺前での泥水噴出、「県道沿いの家は全滅」だったそうです。

(地域別被害の紹介は「ひらつか歴史紀行号外 平塚市域の関東大震災/平塚市博物館HP」より)

7.現在の浜岳地区の関東地震における被害状況

大正10年測量/大正12年11月25日発行/2万5千分の1地形図

国土地理院 明治前期の低湿地データより 肌色:砂礫地、緑色:荒地、草色:草地、黄色:水田・畑

7-1)杏雲堂平塚病院の被害

 大正12年(1923年)の関東大震災が発生したときは、政吉は顧問に退き、佐々木隆興が院長を務めていた。東京の本院は全壊焼失したが、平塚の分院は建物の過半数は倒壊したが、幸い火災の発生は免れ、隆興院長の再建の強い意志と全員の努力により、予想外に早く復興、再建された。

 4代目院長松岡直義の回顧録には次の記述がある。「大正12年9月1日、関東大震災突発し病院全壊す。ただし火災のみは免れた。当時の記録はないので不明であるが、永野、宮寺両副院長初め全員困難を克服し診療に専念し、病院の再建は案外速く、大正14年9月、私が一医員として就任した頃は立派な療養所としての設備はすでに整っていた。」(杏雲堂平塚病院100年史 65ページ 財団法人佐々木研究所編集 平成9年9月11日発行 原文は昭和58年の寄稿)

7-2)相模紡績工場の被害

 相模紡績平塚工場は、相模紡績株式会社が平塚町の斡旋により海岸地区の浜岳(現・黒部丘)にある約2万坪の私有地を買収して、大正6年(1917)に建設した紡績工場です。平塚郷土略史によると、「相模紡績株式会社は横浜の綿麻紡績会社を買収して、大正5年(1916)資本金30万円を以て創立された会社でした。この会社は第一次世界大戦の好況の波に乗って、善く7年には変電所(現東電平塚変電所)を設けて富士紡績株式会社より電力の供給を受け工場を電化するなどし従業員三千人余を擁し、高配当を続けていたが大戦後の恐慌(大正9年)により大赤字を出し、大正10年、経営は債権者の東京の日比谷商店に移り社長に日比谷長太郎が就任した。それより会社は昭和10年(1935)、富士紡績株式会社に合併するまで存続した。」「紡績工場の進出により、全国から集まって来た女子従業員により平塚町は急速な人口の社会増を生み、また従業員達の購買力は商店・娯楽施設の発展を促し平塚は「紡績の町」の観があった。然し工場の労働条件は劣悪で、しばしば同盟罷業が行われた。」とあります。大正9年(1920)には関東紡績株式会社が、須馬村内の東海道線南側の広大な旧中原御林(入会御林)跡地の私有地を買収して、絹綿の紡績工場(従業員250名余)を建設しました。

 関東地震により、「平塚町は繁華街の平塚新宿から平塚本宿にかけて、国道筋の家屋店舗は将棋倒しに倒壊し、須馬村の馬入の農家・須賀港・平塚海岸の住宅地などの家屋は、殆ど倒壊または半壊して完全なる家は一戸もなかった。海軍火薬廠は激震のショックで綿薬乾燥場が爆発したが、大事には至らなかった。・・・火薬廠内の死者は四名、20数棟が焼失した。」とあります。相模紡績平塚工場は、「煉瓦建ての工場であった為僅かに倉庫の一部を残す外、工場は全壊し、従業員約三千名の内死者144名・重傷者25名を算した。死者144名の内約60名は、寄宿舎中で睡眠中家屋倒壊の為圧死した。他は工場より脱出の際多くは煉瓦壁倒壊により圧死した。」

 「平塚駅に建物全部全壊、待合室・事務室の下敷きとなった者は百数十名で、幸い救い出されたが、死者6名を出した。この時相模紡績株式会社社長日比谷長太郎が圧死した。またこの時刻大磯駅を発した浜松発東京行上り列車が、高麗山下で転覆し機関車と五両の客車は高さ約五メートル余の軌道より水田に墜落して、乗客600余名中死者五名と重傷者49名を出した。」

 「平塚第一小学校(崇善小学校)では始業式終了後であった為校庭で遊んでいたじどう4名、教員2名が圧死した。その時全国殖産博覧会が同校で開催であったので、ここでも5名の死者を出した。」

 「馬入鉄橋は川中に落ち、国道の馬入橋も全壊した。道路は大きく亀裂を生じて東海道筋の交通は完全に杜絶し、伊勢原・秦野県道も落ち込んで河川または田畑と同じ低さまで崩れ落ちて交通網は寸断された。」(平塚郷土略史より)。


JT平塚工場内に残る「関東大震災殉難慰霊塔」

百四十七名惨死した平塚の紡績工場 残ったのは煙突一本倉庫二つ


 十一日午前九時の列車で長野駅へ避難して来た者の中に工女の一隊があったが工女を引率してきた男は「私共は東海道平塚(小田原から六里半)の相模紡績工場に居たのですが丁度地震のあった当日は千五百人からの者が出勤して千名余りが夜勤の為に休んでいたので最初の地震と共に右往左往工場を飛び出したのでしたが工場内の低い処にある機械にぶつかって逃げおくれた者、やっと庭まで出た時崩れて来た建物の下敷となった者等は数限りもありませんでした。附近山手の方へ避難した者は一先ず其処に落ち付いて残った負傷者を救助しようとしたが何も救助の道具は無し、余震は盛んにやってくる生きた心地もなく其の夜は明け、翌日からは負傷者を出来るだけ救護すると共に崩れた工場跡から材料を集めて漸く小屋掛けにかかり三日から小屋の中で泊まる事が出来る様になった其処に九日迄いて附近の交通の開けるのを待っていたのです。工場では残っていたものは煙突と倉庫が二つだけで他の物は皆役に立たなくなってしまいました。死んだ者は百四十七名で丈夫な者は皆郷里へ引き上げることになったので自分達は越後刈羽郡と三嶋郡の者六十人が昨日八王子まで出て汽車に乗ったのですがなにしろ工場に勤めている者は足が弱くて三里も歩行くと参ってしまうので困りました。出掛けてきてからは米の御飯や味噌汁が貰われるので皆喜んでいます」と語った。

相模紡績平塚工場の写真(昭和初期頃)

相模紡績平塚工場は大正6年に平塚海岸近くに建設され、2万坪の敷地があった。しかし大正12年の震災により壊滅的被害を受け、のちに富士瓦斯紡績に吸収合併された。

大磯海水浴場(関東大震災後の隆起状況)


7-3)震災後の復旧・復興事業

 震災復興には交通網の再建整備の急務に迫られ、先ず馬入橋の復旧に着手しました。馬入の消防組員と在郷軍人が応急措置として仮橋を造ったが直ぐに豪雨で流失し、陸軍工兵隊により架橋の仮設工事が行われ震災後約1ヵ月後の10月3日に完成しました。現在馬入橋袂にある「陸軍架橋之碑」は、この挺身的な工兵隊員の活躍に対して地元有志が建碑したものです。

 鉄道は9月11日には、平塚と二宮間は汽車の運転を開始し、翌々日の9月13日には平塚・国府津間と茅ヶ崎・品川間の汽車運転が開始されましたが、馬入橋の架橋修復は10月20日までかかり、その間人々は渡船で川を渡り、対岸で乗り継ぐようにしていました。(馬入の歴史、平成20年3月3日発行)

 罹災救助として孤児救助・鉄道無償・罹災農業者の北海道への移住などが進められ、その他の復旧作業では破損農具の交換・傾斜地の竹林の伐採・手入れ聖地・伝染病の予防などが行われました。

 関東大震災の被害から人々が立ち直れない中で、米国から始まった大恐慌は日本にも波及して昭和恐慌となりました(昭和4年)。この時の失業者対策として行われた公共事業が、県営湘南水道の敷設事業と湘南逍遙道路(現在の134号線)の建設事業でした。昭和大恐慌により米や生糸価格が暴落し、地域と農家経済は危機に見舞われ、政府は恐慌に対する経済再建の方法を見つけ出さない内で、国民に「強化総動員・公私経済緊縮運動」を実施するよう呼びかけました。社会の変動は町村行政にも影響を与え、また大正15年(1926)7月の郡制と郡役所の廃止に伴い、町村事務は件からの直接指導監督を受けるようになり、結果として事務量は増大し、財政負担の増加も顕著となってきました。そこで、国と県は町村の合併を勧奨するようになり、平塚町と須馬町は昭和4年4月に合併して平塚町となり、昭和7年4月1日には県下第4番目の市制・平塚市が誕生しました。

7-4)相模地震(大正13年(1924)1月15日朝方)

関東地震復興途中のバラック建てに住む人々を驚かしたのが、翌13年1月15日朝方に、県下全域を襲った「相模地震」でした。震度は5の強震で、震源地は丹沢山付近と言われています。

7-5)「新聞記事目録 第4集(横浜貿易新報)大正11年~大正15年」に見る震災後の様子

平塚市博物館市史編纂係 平成3年1月31日発行

*関東地震前後の大正12年7月1日から大正13年4月30日の間は記録が抜けている。

 

大正13年7月2日 隆起して魚族減少(須賀の馬入河口震災後隆起、遊船客少し)

大正13年7月10日 地震の影響で水田水持悪し(平塚・大磯方面)

大正13年7月12日 大磯防波工事(防波堤復旧工事、近日中に工事着手)

大正13年7月17日 地震で隆起した大磯海岸測量(14日着手、完全なる漁船曳揚場並びに海水浴場設置)

大正13年7月17日 海水浴場に鉱泉湧出(ラジウム含有、大磯町海水浴場の岩石隆起した所より)

大正13年7月17日 海岸砂利採取禁止(地震で減少、大磯町海岸)

大正13年7月17日 まだ名士の避暑もなく寂漠たる湘南の地(大磯管内743人)

大正13年7月18日 平塚停車場復旧工事に着手(大きさは同様だが美観を呈す、9月一杯に竣工の予定)

大正13年7月19日 須賀小学校の新築(予算12万円を計上)

大正13年7月25日 海底の隆起によって入港出来ぬ須賀港(満潮時に漸(ようや)く入港)

大正13年7月26日 土木復旧工事に土俵5万俵用意(出水の際工事の支障を防ぐため、土木課大磯派出所)

大正13年8月7日 平塚役場建築(6日、建築委員会)

大正13年8月8日 震災の被害による水田蕪地(伊勢原附近だけで65町歩)

大正13年8月10日 震災地の復興に懸命奔走した(清野知事、小田原・鎌倉・秦野に低資融通)

大正13年8月10日 馬入の鉄橋が漸く複線運転(18日頃より)

大正13年8月12日 各駅に先んじて平塚駅の上棟式(11・12日、落成式は9月中旬)

大正13年8月13日 予定を15日に繰上げ馬入鉄橋複線開通(橋長1960尺)

大正13年8月14日 本年度以降の各郡震災復旧費(郡別記載)

大正13年8月15日 相模紡績法要(15日、平塚町晴雲寺にて震災横死者法要)

大正13年8月16日 馬入川鉄橋の複線運転愈(いよいよ)開通(15日、試運転も無事終了)

大正13年8月16日 又た地震(15日、横須賀・小田原・平塚・鎌倉の状況)

大正13年8月19日 復旧工事近く落成平塚駅面目一新(裏面昇降口も年内開通)

大正13年8月21日 以前に優さる大磯駅の構造(9月中には竣成)

大正13年8月23日 相模紡績工場復旧(平塚町、10月には総運転)

大正13年8月24日 内務の技師連復旧視察(24日、秦野・平塚他)

大正13年8月24日 震災記念大法要(31日、金目村観音寺にて)

大正13年8月26日 消防震災記念(平塚町新宿消防組、震災記念行事)

大正13年8月28日 郡市所要の学校復旧費(郡市細別)

大正13年8月29日 震災記録発行(高橋大磯警察署長)

大正13年8月29日 平塚町の震災記念(実施事項詳細)

大正13年8月30日 水道の復旧(秦野町他、県下水道状況)

大正13年8月30日 震災1周年後現れた湘南の盛衰(平塚だけが地震太り)

大正13年8月30日 落成の暁面目一新(工事中の平塚駅)

大正13年9月2日 東海道電化の機関車試運転(3日大船と小田原間、平塚には29分停車)

大正13年9月2日 平塚町の震災記念(1日、詔書棒読と法要講話開会)

大正13年9月2日 法要と講演会(仏教慈徳会中郡護国団、開催日割記載)

大正13年9月3日 中相模の経済界に復興曙光顕著(月掛貯蓄に表れた実績、秦野町は復興の先駆)

大正13年9月5日 震災による出産統計(甚だしい減少、中郡)

大正13年9月16日 平塚の地震(14日の未明平塚にて、被害はなし)

大正13年9月18日 鉄橋は下線に故障馬入橋は流失(16日の暴風雨により)

大正13年9月18日 暴風豪雨本県を襲う(16~17日の暴風雨県下各地の被害状況、大磯・伊勢原方面の記述あり)

大正13年9月19日 平塚強震(18日)

大正13年10月5日 本日落成式挙行の平塚駅(写真)

大正13年10月11日 労働統計調査(10日、平塚町は相模紡績工場と関東紡績)

大正13年10月11日 大磯駅竣工す(17日、落成式)

大正13年10月14日 重量物は制限付で馬入仮橋開通(11日、13日からは馬車・自動車も差支えない)

大正13年10月19日 本日落成式挙行の大磯駅(写真)

大正13年10月29日 平塚の弱震(28日)

大正13年11月20日 震災前に劣らぬ堂々たる校舎講堂(平塚小学校)

大正13年11月23日 建物から見た市郡の復興状況(秦野署他各署内状況)

大正13年11月23日 二ノ宮駅竣工式(23日)

大正14年5月10日 本日の開庁式の平塚町役場(写真)

大正14年12月11日 平塚の強震(10日)

大正14年12月13日 平塚の弱震(11日)

大正15年1月17日 平塚の強震

大正15年4月13日 馬入複々線と平塚駅の工事(10日、馬入鉄橋完成)

大正15年6月3日 競馬場開場式(5日、平塚競馬場)

大正15年8月4日 平塚方面戸外へ飛び出す(3日、地震)

大正15年10月14日 別荘の復活見込がない(平塚海岸、震災以来振わず)

大正15年10月29日 花水橋落成(11月下旬竣工予定)

大正15年10月30日 平塚駅南側の盛大な開通式(11月11日)

大正15年11月25日 金目川改修式目出度終る(23日)

8.北伊豆地震

 北伊豆地震は、昭和5年(1930年)11月26日早朝に発生した、伊豆半島北部を震源とするマグニチュード7.3の直下型地震です。震源に近い静岡県三島市で震度6の烈震を観測し、横浜市や横須賀市でも震度5の強震を観測しました。横浜貿易新報は同日夕方には臨時夕刊を発行し、「今暁・激震突如として伊豆・箱根を襲う 静岡県の死傷九百名に達し、箱根町は全部倒壊全滅」「対象震災以上の第三条を呈した三島町地方の被害」と報じました。幸いにして地震発生が早朝だったために火災は少なかったが、死者・行方不明者272名など、静岡県東部・神奈川県西部を中心に大きな被害が出ました。この地震に顕著だったのは多数の前震で、同年2月13日から本震に至るまで2200回を超える地震を記録し、各地で発光現象や地鳴りといった宏観異常現象があったとの記録が残されています。本震後の余震も数年間続きました。

9.地震災害からの教訓とこれからのまちづくり

•       災害は忘れた頃に突然容赦なく発生する。

•       地震による影響は一様ではなく、場所と条件により様々な形となって人々に被害を与える。

•       人々に最も危害を加えるのは地震そのものではなく建物などの人工の構造物である。

•       土地の改変や森林破壊などの環境破壊が被害を拡大する要因となる。

•       近年の地震災害の拡大は地震発生エリアに居住する人口が増えたことによる。

•       地震発生エリアに生活する人は日頃の備えと危機管理意識を持つ必要がある。

 

 私が国連の建築専門コンサルタントとして復興支援に行ったカリブ海周辺や中米地域は、日本と同様に地震や火山活動が多い地域ですが、2010年1月12日に発生したハイチにおける地震は、ハイチの人々にとっては実に約150年ぶりの大地震と言うことで、人々に地震に対する防災という意識も備えも全く無かったのが、これほど被害が拡大した要因のひとつです。地震は忘れた頃に突然、何の容赦もなく襲ってくる。それに対する備えは、果たして世代を超えて引き継ぐことができるか、という問題を考えさせられました。その点、日本は広い国土のどこかでより頻繁に地震が発生しています。そのため以前の地震の経験が次の震災対策に活かされていく、建物の耐震性に関する基準も大きな地震の度に見直されて、現在では世界でも最も優れた耐震技術をもっています。しかしながらその一方で、古い耐震基準で建てられた建物も数多くあり、阪神淡路大震災では多くの建物が倒壊しました。

 日本においては建物の寿命が極端に短く、建て替えが進むことにより街の耐震化が進むことは防災の観点からは望ましいのですが、スクラップアンドビルドを繰り返す事は環境保護的な視点からは決して好ましいことではなく、長期的視点で安全安心なまちづくり、建物づくりをしていくことがこれからは特に大事だと思います。

 地震発生のメカニズムは地面の下の自然現象でなかなか解明できない部分も多いけれども、街や建物はブラックボックスではなく私達がつくるもの、人工的環境です。経験的知恵と技術を生かせばより安全なまちづくりが可能です。発注者でありそこに居住する私達市民が建築に対して必要な知識を持ち、建築家や技術者など専門家をもっと活用して安全安心なまちづくりをしていただければと思います。

参考文献

「西相模地震 西さがみ庶民史禄 地震記事総集」播磨晃一編

「西さがみ庶民史禄」5号 西さがみ庶民史録の会発行1983年

「西相模の災害地名:迫り来る危機への予感小田原地震」上村豪(寄与者)1994年発行 243ページ

「地震のはなし」神奈川県発行 平成6年12月

「大地動乱の時代」石橋克彦著 岩波書店発行

「戦災復興誌 第八巻 都市編V」建設省編(財)都市計画協会発行 昭和35年3月20日発行(平塚市の記述は295ページ~340ページ)

「平塚市史7 資料編 近代(3)」平塚市 平成9年3月31日発行 平塚市博物館市史編纂係編集 (株)精興社 印刷(関東大震災に関する記述は155~275ページ)

「神奈川県震災誌」神奈川県発行1927年

「震災調査報告書」 平塚市博物館発行 平成11年3月25日発行 平塚市南図書館所蔵

「平塚市史資料叢書3 平塚郷土略史」 平塚市博物館市史編さん担当 平成14年3月31日発行 平塚市南図書館所蔵

「平塚町・須馬町合併史(平塚市の誕生)」 冨田常蔵著 平成15年11月発行(有)弘文堂印刷(平塚市幸町1-5)印刷・製本 平塚市南図書館所蔵

「平塚周辺の地盤と活断層」2007年度夏期特別展図録 平塚市博物館発行2007年

「新聞記事目録 第4集(横浜貿易新報)大正11年~大正15年」平塚市博物館市史編纂係 平成3年1月31日発行

「わが市の写真帖 平塚50年の歩み・市制50周年記念誌」昭和57年4月発行

「目で見る平塚・秦野・伊勢原の100年」高瀬慎吾監修 郷土出版社発行

「須賀の歴史・文化 須賀ものがたり」須賀の歴史再発見事業活動委員会著 平成21年9月1日発行

「横浜の関東大震災」今井清一著 平成19年9月20日 有隣堂発行

*「震災と街の歴史」は浜岳郷土史会において2013年6月25日に開催した市民向け勉強会の資料として作成編集されたものです。

連絡先

Tel/Fax:(0463) 31 - 2161(代表:山田美智子)

E-mail:goten463star@gmail.com