相原延光:ひらつか防災まちづくりの会会員
平塚は日本の古い地名に残されている湘南砂丘の崖につけられた名前である。ここでは、平塚の歴史を自然の風景とともにたどっていくまち歩きをたどってみる。
◆「地名」は自然発生的に発生し伝承された姿であり、日本人の遺産でもある。(谷川健一)
◆縄文時代(約1万2千年前から2500年前)氷河時代から温暖な気候となり、海水が上昇。人々は定住生活をして小動物の狩猟と木の実などを食糧としていた。そこで生まれた縄文語は日本語の原点とされている。縄文語に近いのはアイヌ語と沖縄の古語である。アイヌ語で説明できる地名は東北地方以南から沖縄まで沢山ある。日本語は縄文語→アイヌ語→日本語と変遷したというのが定説である。
◆「ヒラ」は斜面や坂を意味する(和語=古事記の黄泉比良坂よもつひらさか)アイヌ語でも崖を意味し、「ツ力」とはその周囲の地面より、 こんもりと丸く盛り上がった場所を指し、具体的には何かが集積、堆積した盛り上がりや高いところ。 「ひらつか」の地名は古語で「砂州(丘)の崖」。
◆平安時代には黒部宮平塚は海岸に面した高台に鎮座し、その地域(十軒坂)で門前集落を形成していたが、たびたびの高潮、津波のため社殿が流失してしまったので海浜の十軒坂から集落、住民とも町ぐるみ北側七百メートル北方の(現在の柳町地区・要法寺西隣)に集団移転。(新編相模国風土記稿第3稿より)
※平塚の地名の由来
◆平塚と須賀村を結ぶルートが黒部丘~三島神社につながる砂丘間凹地である。
◆平安時代は黒部丘の砂丘の崖に「平塚宿」があり、その南に海岸沿いの道があり、三島神社までつながっていた。
◆鎌倉時代になって砂の堆積が進み、海岸線が砂丘間凹地となった。
◆三島神社から東には砂地はなかった。三島神社から南東に向かって砂丘を越えて漁業の町並みが繁栄した。平塚宿は風水害を受けて東海道沿いに移設され東海道の宿場町として栄えた。江戸初期には全国的な山岳信仰ブームで須賀村は漁業商業地として繁栄が続いた。
◆大正時代初期に須資村は馬入村と合併し、須馬村となった。関東大震災で被災し、液状化による長楽寺付近で家屋倒壊により60名ほどが亡くなった。
明治15年に作られた関東測量部迅速図「平塚」で当時の地勢を見てみよう。
◆相模川の砂・礫の供給が続き、大水が出る度に須賀村と馬入村の間は川は氾濫し、漫水被害を繰り返していた。一方、須賀村は沈降しているために相模川から供給された砂や礫が堆積し、ラグーンを形成、河口付近には沿岸流により砂州~砂嘴が広がり、須賀村の防波堤となっていた。
1890年に須賀村は馬入村と合併し、須馬村となり、 馬入地区は東海道沿いに、須賀地区は三島神社~須賀港として平塚新宿とつながっていた。その30年後に関東大地震がこの地を襲う。沿岸流で作られた砂州が津波からの防波堤の役目を果たした。須賀の一部は地盤が弱く、液状化による家屋倒壊が起き、60名が亡くなった。杏要堂病院は日本で初の東大医学部出身の医師が開いた病院で、結核治療にあたっていた。明治15 年創設したが、この震災で焼失した。
現在のまちなみをGoogleの空中写真と、明治迅速図を比べてみる。平塚の古道が良くわかるだろう。
防災の目でみるとどのようなまちあるきが期待できるであろうか。
①平塚駅付近のビル街を抜けていくとやがて三島神社に行きつく。ここは黒部丘から続いていた砂丘間低地の先端部に当たる。
②三島神社の弁天社のふしぎを探そう。須賀村の漁業・商業地の町並みをみてみよう。
③相模川の放流案内板と須賀港での津波対策はどうであろうか。
④美しい湘南砂丘をみて相模湾と丹沢から箱根の山々を眺めよう。
平安時代(794年~)の初め、当地は「須賀のから浜」と呼ばれ、多くの方々から信仰を集めていた。戦国時代の永禄9年(1566年~)には小田原北条氏の手厚い保護のもと、魚類・船運業の集散地として栄え、江戸時代には海運業商業の要としてこの地は急速に発展した。江戸時代半ば(1670年~)には須賀千軒といわれるほど人家が増え、相模国の海運・海路の玄関口として栄えた。各地で「山岳信仰」が盛んになるにつれ、伊豆・房総半島から船旅の方々も増え、須賀港に着くと当神社に参詣し、道中の守護を祈願した。現在も漁商業をはじめ、諸産業に携わる人々に商売繁盛・家庭円満をもたらす神さまとして参拝客が多い。
⑤津波注意の看板を発見した!
⑥国道134号線と相模大橋
⑦橋脚工事中
県発行の津波ハザードマップ(平塚市)によると、元禄地震の震源域を想定した津波の高さは最大5mで国道134号線の南側の須賀港に達する。
まちあるきでの気付きをどのようにまとめるか。